polaris-of-research’s diary

日々の思考の断片。あの日の記憶。

思考と生

2022年10月4日、早朝。今月ももうすでに4日目に突入してしまった。あの頃は毎日をどのように過ごしていたのだろう、なんて回想する日々がいずれやってくる。そう思うと、なんだか微笑ましいような。一日の積み重ねが人生となり、そこに道ができあがる。でもきっと、わたしも誰かの轍の上を歩かせてもらっているだけだ。自分ひとりで創出したものなど、なにもない。それでいて皆「オリジナル」に見えるのだから不思議だな、などと。

 

朝の時間は濃密に凝縮されているように感じるのはなぜだろう。昼間のように薄く引き延ばされていない。前までは深夜の時間帯にそう感じられた。以前は朝に、そして今は夜に、覚束ない思考回路をショートさせている。生活習慣とともに変化したのである。いずれにしても、毎日限られた数時間だけ、頭の芯が冷えている時間があることに変わりはない。

 

モノを考えるにはある程度の熟成というか、質量のある時間を要する。仕事中(したがって日中)は、恒に時間に追われているが、そのときのアタマはまた別種の働き方をする。回転速度が上がっていくにつれて眼前に広がる霧が溶けていくように、思考も次第に明瞭になっていく。でも、それだけだ。そこが終わりでゴールだ。見え透いた行き止まりに到達するだけのこと。それ以上でもそれ以下でもなく、きちんと終着点がある。モノを考える際の「思考」にはそれがない。パッと解決することを「考える」わけではないのだから当然である。生についても同様のことが言えそうだ。遅かれ早かれ、終わりはやってくるのに、日々は永遠に続くように思われる。二律背反する命題が皮膚に鋭く矢を立てる。終わりとは、思考するとは、そして生きるとは何か。わたしは今、どこへ向かっているのか。あとになってみないと、生きてみないとわからないものなのかもしれない。しかしながら、考え続けることで見えてくる世界があることもまた真である。そう信じたい。

 

今昔物語

あまりにも天気がよく、逃避願望に駆られる朝。いますぐにでも登山に出掛けて、紅葉の絨毯に包まれていたい...などと妄想を膨らませる。一日中部屋の中に篭って仕事をするにはもったいない日だ。一方で、月末だから休みたいなどとは言っていられないほど多忙を極めるここ数日。理想と現実はいつもかけ離れているものである...。

毎日帰宅後は眠くて仕方ない。やることをすべて済ませたら早めに休むことにしている。昨日は21時半に眠りについた。小学生みたいな生活だ。

 

いやはや、小学生の頃はどんな放課後を過ごしていたのだろう。テレビを見たり、読書にどっぷりと浸かったり、習い事に行ったり、友達と遊んだりしていたのかな。今思い出すと、近所の幼馴染との時間はかけがえのないものだと身に沁みて感じる。彼女は芸術系の大学に進んだという話を聞いたが、成人式以降顔を合わせる機会がなかったので、今はどうしているのかわからない。

思えば、感覚でモノを見る力は彼女と一緒に過ごして自然と身についたのかもしれない。当時のわたしは文字列が織り成す空間には興味があったが、二次元と三次元とを往来する絵画の世界にはまったくと言っていいほど関心がなかった。それが今や、ひとりで美術館に足を運ぶほどハマってしまっている。どうしても観たい展示や企画があれば、どこへでも行った。時間を持て余した大学生の頃に赴いた横須賀美術館は特に心地よい場所で、展示を観ていたらあっという間に一日が過ぎてしまったことを思い出す。「中園孔二展」また観たいな。キャンバスを越えて迸る生には圧倒された。なんとしてでも表現したいという気概に凄く勇気づけられ、元気をもらった。こんなに奥深い芸術の世界があるのだと、幼年期のわたしに彼女が教えてくれたことを感謝している。

 

今は仕事を終えて帰れば眠りにつくだけの日々だが、朝は自由そのものだ。この時間があの日の登校風景、そしてその後の時間と重なる。わたしたちはまだ学校が開く前の早朝に一緒に自転車で登校し、先生たちが続々と出勤してくるのを横目に、校庭の隅にあるブランコに乗っていた。漕ぎながら、あれこれと話をした。家での出来事や、読んだ本の話、今考えていること、これからやってみたいと思っていること...。

 

わたしはあの頃から何も変わっていない。朝のこの自由で飄々とした時間を穏やかに、自分の好きなことをして過ごしている。文学研究ができる唯一の、大事なひとときは何物にも変え難い。あの日々を糧に、わたしは今日も朝から机に向かっている。

習慣化とこれから

習慣化について考えている。生物の中でも殊に人間は、意識的な習慣を創出することに長けている。時には順化の波にさらわれていて気がつかないほどである。俗に言う、習慣に飼い慣らされている、というやつだ。

 

私の場合、朝起きたばかりの脳は機械的な思考に向いている。数学や物理の解き慣れた問題など、考える手数を要さず、手首から先の手癖の運動によって解決されてしまうものが好例だ。物理の「動摩擦力」の類題を私は好んでよく解く。図を書いていると安心するのも理由の一つだが、そこにはもっと奥行きがある。

質量mの物体から運動方向(mgsinθ)と垂直方向に力が加わり(mgcosθ)、これが垂直抗力Nと釣り合う(∵mgcosθ=N)。これにより、地に足がついているようでいて、実は頭から引き上げられてようやく立っているような感覚を覚える。また、mgsinθとmgcosθの力を分散する形で鉛直下向きに重力mgがかかる。仲介者として支えてくれるmgの存在があってこそ成り立つ空間があるのだ。さらに、角度のついた斜面に置かれた物体には無論、滑り降りようとする力が加わる。同時に、反対方向に摩擦力fがかかり、なんとか現状を維持しようと踏ん張っている。・・・・・

やや擬人化の度合いが強いことは置いておいて...こんなことを考えていると、ぼんやりと自分の座標とこれからの生の在り方について思いが及ぶのである。あらゆる方向から加えられる力のように、程度の差はあれど誰しも限られた環境の中で自分の「仕事」を全うしている。これが私の人生だと胸を張って言い切れる仕事をしたい。僭越ながら、私にとってその一つが論文を書くこと、文学や哲学に携わることである。生きる希望の灯を最期まで絶やさず、真っ直ぐに生を味わいたい。

 

どうやら頭が冴えてきた。沈思黙考の段階に突入したようだ。ここまできてようやく分析的思考脳が活性化する。・・・・・

 

自らを顧みると、「習慣化するための習慣」を生み出していることが分かった。文学研究を続けるという習慣。その準備段階として、機械的な計算などを行うという習慣。すなわち、「思考する」ために身体を動かし、徐々に脳内のシナプス運動へと移行していくのである。四肢から頭への伝導は、元を辿れば脳から末端の運動神経への命令が先立っていることに合点がいく。当たり前だけれど逆説的で面白い話だと思う。

 

これからはこうして書きながらにして考えるハイデガースタイルで、たびたび思考の痕跡を、あるいは布石を打っていきたい、と今この瞬間は感じている。思考とともに時はあっという間に過ぎ去る。Tempus fugit.自戒を込めて。