polaris-of-research’s diary

日々の思考の断片。あの日の記憶。

習慣化とこれから

習慣化について考えている。生物の中でも殊に人間は、意識的な習慣を創出することに長けている。時には順化の波にさらわれていて気がつかないほどである。俗に言う、習慣に飼い慣らされている、というやつだ。

 

私の場合、朝起きたばかりの脳は機械的な思考に向いている。数学や物理の解き慣れた問題など、考える手数を要さず、手首から先の手癖の運動によって解決されてしまうものが好例だ。物理の「動摩擦力」の類題を私は好んでよく解く。図を書いていると安心するのも理由の一つだが、そこにはもっと奥行きがある。

質量mの物体から運動方向(mgsinθ)と垂直方向に力が加わり(mgcosθ)、これが垂直抗力Nと釣り合う(∵mgcosθ=N)。これにより、地に足がついているようでいて、実は頭から引き上げられてようやく立っているような感覚を覚える。また、mgsinθとmgcosθの力を分散する形で鉛直下向きに重力mgがかかる。仲介者として支えてくれるmgの存在があってこそ成り立つ空間があるのだ。さらに、角度のついた斜面に置かれた物体には無論、滑り降りようとする力が加わる。同時に、反対方向に摩擦力fがかかり、なんとか現状を維持しようと踏ん張っている。・・・・・

やや擬人化の度合いが強いことは置いておいて...こんなことを考えていると、ぼんやりと自分の座標とこれからの生の在り方について思いが及ぶのである。あらゆる方向から加えられる力のように、程度の差はあれど誰しも限られた環境の中で自分の「仕事」を全うしている。これが私の人生だと胸を張って言い切れる仕事をしたい。僭越ながら、私にとってその一つが論文を書くこと、文学や哲学に携わることである。生きる希望の灯を最期まで絶やさず、真っ直ぐに生を味わいたい。

 

どうやら頭が冴えてきた。沈思黙考の段階に突入したようだ。ここまできてようやく分析的思考脳が活性化する。・・・・・

 

自らを顧みると、「習慣化するための習慣」を生み出していることが分かった。文学研究を続けるという習慣。その準備段階として、機械的な計算などを行うという習慣。すなわち、「思考する」ために身体を動かし、徐々に脳内のシナプス運動へと移行していくのである。四肢から頭への伝導は、元を辿れば脳から末端の運動神経への命令が先立っていることに合点がいく。当たり前だけれど逆説的で面白い話だと思う。

 

これからはこうして書きながらにして考えるハイデガースタイルで、たびたび思考の痕跡を、あるいは布石を打っていきたい、と今この瞬間は感じている。思考とともに時はあっという間に過ぎ去る。Tempus fugit.自戒を込めて。